父の事


この写真は父が19歳の時 戦争体験は父の人生のすべてで1番印象が強かった


のだろう、まだ元気だった70歳くらいの時 周りの皆んなに配り始めた。


私が遠い異国の地 スペインで 最初の子供を出産時に亡くし、高齢出産なの


で 2人目は両親のそばで産もうと日本へ帰ってきた。その時、父は酒の飲み


過ぎが災いして肝臓を悪くして 熊本大学病院に入院していたが 私は息子が


生まれても父の見舞いには行かないでいた、が 何と父は 点滴を持ってタク


シーで息子を見に帰ってきた。よっぽど嬉しかったのだろう、それから 自分


の歴史 というのを書き始めたようだ。後書きに「何しろ、学もなく、うまく


書けなかったが、最愛の孫達に送るため懸命に 書いたものなり」と結んであ


る。兄の子供3人の孫の後 8年後の1983年6月に4人目 そして これから続


く 弟達の子供も見たい という思いが強くなったのだろう。書き終えたのが


5年後の 昭和62年、それがー熊本の果樹ーという本に 自叙伝「樋島の海ー


私の足音ー」と言うタイトルで 連載される事になったとの事、


そして148ページの小冊子を 冒頭の写真と一緒に 戦友と子供達に配ったの


だった、私はすぐに読んで、上手な文章で よく書き上げたものだと 感心し


ながら その後も折に触れては読み返していた。父の物語に書評(?)をしてく


ださっているので、抜粋させて頂きました。「編集子が著者とはじめて出会っ


たのは、12年前の春、甘夏栽培の最中の著者の畑の中、香り高い花の満開の季


節であった。地元 竜ヶ岳町農協 果樹部 会長としてリーダーシップをとっ


ていた著者(現在も会長として活躍中)と農業技術者として編集子が当地に赴任


した時のことである。 著者の人生の中に一貫して流れているものは、崇高な


人間愛である。多感な情熱は昇る太陽のごとく燃え続け、その体験記は克明な


記憶と共に、強靭な精神力がみなぎっている。幾度の死線を乗り越え、光陰の


変遷に順応しつつ、生まれ変わったあゆみの中に、常に息づいているものは深


い郷土愛である。その郷土愛を源流としてー樋島の海ーが謳いあげられてい


る」と結んでくださっている。                          


子供の時から戦後の貧乏な時代ではあったけれど、天草の小さな小さな島の 


人里離れた 辺鄙な場所の部落だったのに、父は時代の動きをよくキャッチし


て動いていた。狭い庭には無花果の木を植え、ヤギもウサギも鶏も飼い、  


船舶業、養豚、車海老の養殖、イワシ網の網元、様々な事を試して 私達を養


ってくれた。そして、最後にたどり着いたのが、山を開墾して甘夏の栽培、を


始めたものの 時代は過ぎ、スペインのバレンシア オレンジの輸入解禁で一


生懸命育てた、甘夏の木を伐採、甘夏の良さと オレンジは違うのになぜ?と


思ったが、気の多い父だな、と ずいぶん勘違いして過ごした時期がある、が 


対外国と経済戦争の一場面であった、という事も書き記しているから、精魂込


めて開墾した山への夢を断たれた、両親の姿を目の当たりにしてたので、頭が


下がる。                               


戦場で命をかけて、生き抜いて、戦後の大変な時期に 子供達を懸命に育てて


くれてたのだ。ある時期 インドネシアのスマトラ島へ、生き残った戦友達と


それぞれの奥さん達を連れて訪ねてきた、と 聞いてはいたが、 主人が仕事


の事でインドネシアによく出かけるようになっても、「お父さん達もインドネ       


シアへ行ったんだって」と 軽い気持ちで、話しはしていたが、今回 ブログ      


を書き始めるのに 父の本を読み返してみて初めて発見したのだった。         


藤井厳喜氏やマントラさんのYouTubeでインドネシアの歴史の事を知る様になり      


父の最後に戦った戦場は、昭和20年8月15日戦争が終わった後にインドネシアに      



残って、日本人がいなくなった後にオランダが攻めて来るのを見通した日本軍の     


作戦で インドネシアに配置された 十中隊 ーチモール島警備ーこの時中に加     


わった一兵卒だったようだ。その時、インドネシア領と、ガダルカナルへと二つ


の地域に配置されたらしい、我々とジャワ戦線で共に戦った第二師団は、        


ガダルカナル島方面に転身させられたと記してある、21年5月13日米軍のリバティ    


上陸船にてガラン島を出発してに着く 途中沖縄に近づいた時の、思いの歌を4首


ー 日の本の 誇りし 陸奥も たこの宿


ー 霧島の 機関兵たる 兄の身を 無事であれよと 祈りし我は


ー 船なくて 何んで 南方の資源かな


ー 国守り 花と散りにし 強者の尊きみたま 靖国にねむる


ジャワ上陸作戦の時の、凄まじい生か死のあの戦場の火の玉は、まぶたの裏に


焼き付いていると記してある、


ジャワ島上陸


無風地区と言われた赤道を通過する時、赤道祭をして、神酒をあげ、神に祈って航海したと聞くと書いてある、




只の一兵隊の記した戦場体験記にしては良く書けていると思う。そして去年の


夏のある日 息子に「おじいちゃんが 戦争が終わった後に インドネシアで


オランダ軍と戦ったんだって」と言ったら 「俺知ってるよ」と言う返事「ど


うして知ってるの?」っと聞くと「小さい頃おじいちゃんとお風呂に入った


時、お腹に傷があったので、どうしたの?」と聞いたら「戦争でインドネシア


で戦った時の傷だと言ってたよ」と言うではないか、愛情の深い気持ちの優し


い人だった、私たち兄弟にとって、何よりの財産は、父と母が喧嘩しているの


を見た事がない、怒る事も無かった。母への思いを歌に読み、父の臨終が近づ


いてる時「10分でも15分でも生きてて欲しい」と 母に言わさせる父、これか


らの オナゴ は何か技術を身につけろ、私は対して頭は良く無かったが、       


高校にも行かせてくれ、卒業と同時に 車の免許も取らせてくれた。


父の書棚から抜き取ってきたー空海の軌跡(佐和隆研著) 天草の郷愁(北野典夫


著、)と父のー私の足跡ーの3冊が私に寄り添ってくれている。



下桶川の、夏祭り祭夏旧暦六月二十八日、〇才の赤ん坊の土俵入りを行いその


子の健康を祈り、部落の繁栄をたたえて、青壮年の大相撲が奉納されている。


無事に産まれたばかりの4人目の孫を抱いた、大手術後の父の姿、




海軍相撲五段、霧ヶ里の叔父、




小さなバイクで駆け回ってた父と日本語の勉強の為 熊本市南出水小学校に1年編入してた時の息子




ー老いし吾れ さいどあえるやこの孫と やっぱり遠い スペインのそら



もう長く無いかも知れないので、と兄弟達がマジョルカに行ってこいと勧めて


くれ、1990年に遊びに来てくれた、その次の年、20歳のお祝いに2人の姪と


小学生の弟の息子、竜君を連れて、やってきてくれた。病気や怪我が多かった


でも大酒飲みでも悪酔いしている姿は人に見せた事はない、8人の孫達とも良


きお爺ちゃんとして接してくれ、楽しく生ききってくれたのではと思う。





毎年8月になると 主人のインドネシアの長年の友人 ソエジャト ミコ氏 


(現在83歳)からインドネシア独立記念の祝賀のニュースがメールで送ってくる、


私の父が、インドネシアで最後の戦いでオランダ軍と戦った事を話したら、 


ビックリして喜んでるらした。ミコさんは若い時、東京農業工業大学の工学


部、工業化学科に留学されてて日本語がとても上手、娘さんも信州大学に留学


されてて現在インドネシアで日本の企業に勤めていらっしゃる、ヨーロッパに


住んでいる日本人なのでインドネシアの
事でヨーロッパで調べて欲しい事が


あるという依頼を受けたのが主人のインドネシアとの付き合いの始まり。長い


年月インドネシアとの縁がつながっている主人、友達が多い。毎日、面白いメ


ールやインドネシアのニュースが届く。主人にとったらインドネシアは第3の


故郷になっている様だ。インドネシア人はインドネシア愛が凄く強い「インド


ネシアはまだまだだけど、これから凄く伸びていくと思う、私が生きている間


に、るみ子さんも是非会いに来て」と上手な日本語で、お誘いを受けた。  


バテイックを着るお祭りの日に奥さんとお揃いのバディック姿のメールが届いた。