1980年、五月の出来事 そして34年後

五月初め「るみ子さんお元気ですか?児玉です、今 セビージャにいる


の、明日マジョルカに行くの」と電話が入った、「ホテルはどちらですか?」


と聞いたらソンビダホテルという事だっのでお部屋番号をお伺いした、電話で


「エリザベス・サンダース・ホームの澤田先生ご存知?」と 仰ったので 


「いいえ存じてません」と、どういう事かわからずに兎に角ご挨拶に伺った。


お訪ねした時 澤田先生は奥の寝室に寝てらしたので、妹の福沢綾子様とお二


人の同室に泊まってらした、5年ぶりにお会いした児玉美智子さんに「もし宜


しかったら主人は指圧や針などができますけど」(その当時道場では生徒たちも


怪我が絶えず応急処置も全部自分でやってあげ、なるべく手術をしないで治し


てあげてたので外科医達には嫌われていたそうです、そのうち生徒達のお婆ち


ゃん、お爺ちゃん、誰それとやってきては治してあげてたのでビックリ仰天、


私も実際にやって貰って 大きな手で頭全体の圧のかけ方、首筋の揉みほぐし


方、最後の頸椎のけん引など天下逸品の手技だと思ってたのでごく自然の言葉


でした、)と だけご挨拶 皆さんの心配が重く深くて、児玉さんとも何も話せ


ないで道場に帰って主人に報告した、最初はご遠慮されてたのですが、翌日お


電話があって主人がホテルへお伺いし、軽い指圧をしながら柔道の話しが始ま


ったらしい、主人は柔道家の割には体は小さく、日本では無名の柔道家だけど


その当時は海外畑での10年間の武者修行で鍛えた体と、四角顔、澤田先生ご本


人も若い時ご兄弟たちと柔道をなさってた事、戦争で亡くされた三男の方も柔


道をやられてたとの事、そして亡くされたお孫さんと同じ歳と いくつもの偶


然が重なりあって、沢田先生の心がほぐれていったのではと、私の感じた事で


す。「るみ子さん、沢田先生をよろしく、よろしく」と児玉さんは書き置きを


残して他のグループの方達と日本にお帰りになりました。そして、連絡を受け


られた長男の信一氏と奥様が日本から駆けつけていらっしゃいました。5月12


日にマジョルカのホアネダ病院でお亡くなりにになりました。その後はマドリ


ードにある三菱商事の支社長さんがいらして色々な手続きをされ、日本へお帰


りになりました。あっという間の出来事でした。



写真は児玉さんと澤田先生、もう一枚は福澤のお婆ちゃんです。(私は敬意をを


持ってそう呼ばさせて頂いてます、心静かな深い広い大海原のような女性だっ


たのではと人生の大先輩にそのょうな言葉失礼かもしれませんが、72歳になっ


た今だからお許しください、その後 色んな場面でよく可愛がっていただきま


した、沢田先生の形見に大きな粒の真珠のネックレスをいただきました、1993


年 長男信一氏の奥様の正子様とのご縁で今生の上皇后陛下をマジョルカ島の 


サンホアン空港でお出迎えする事ができた時使用させて頂きました。                                


児玉さんとの出会いは、彼女がオリリという化粧品会社で オリリーサロンニ


ュースという新聞発行の編集長をされてました。帽子の専門学校の、サロン、


ド、シャポーで勉強をしていた時、同居していた従姉妹の敬子ちゃんが 新作


の口紅の宣伝モデルを頼まれてたのが 急遽入院する事になり、ピンチヒッタ


ーで口紅のモデルの事でお会いしたのがきっかけでした。


彼女も一昔前の熊本時代の小川の叔父(当時、大阪で建築家、画家、レストラン


経営者)たちの若き芸術家(新潮会)の仲間の一人だったようで東京で暮らし始め


た私も親しくさせて戴くようになりました、後1985年 「胸をはろう 大空に


むかって」と言う本を佼成出版社より出版されました。           




人の出会いは不思議です。その後主人と澤田信一氏の関係はまるで親子のよう


でした、そして私にはまるで息子の嫁のように接してくださいました。本を読


むのが好きな私に、「るみ子さん 親父の本ができたので読んでくれ、親父も


結構色んな事やったよ」と仰有り 1990年に澤田廉三先生遺稿刊行会より刊行


されたー随感随筆ーをサインを入れプレゼントしてくださいました。それから


も主人は信一氏の弟の久雄氏とも一緒に講道館で柔道やったりしたそうです、


ご家族の年賀状をよくいだだきました。




次の年だったと思います、日本テレビで 沢田先生の物語がテレビ放映される


という事で撮影の方達がいらっしゃいました。旧市街地など馬車で同行させて


頂いた私は、撮影って大変だなぁって思いながら見学させていただきました。


マジョルカの最後のシーンに登場したのはフラメンコの足のシーンとギターの


音でした。その時の若い頃のフラメンコダンサーのカルメンとギターリストの      


ディエゴと撮影スタッフの方達との思い出の写真です、二人は 残念な事に数       


年前に閉店されてしまったのですが、東京新宿区の伊勢丹会館の7階にあった       


エルフラメンコ というタブラオで踊った最初のグループでした。あんなに       


一生懸命やってくれたのに足だけ出演とは本人達には言えなくて内緒にして        


おこうと主人と話した事でした。長い間 日本とスペインのフラメンコ関係者      


に愛さた、エルフラメンコ のマネージャーの竹内氏も主人の日大の柔道部の      


友達の親友というご縁で新婚旅行にマジョルカ迄いらして下さいました、主人       


の場合は本当に柔道繋がりが多いです。その後の話があります、一時期そのエ


ルフラメンコが大阪に出店したした時、熊本の姪がフラメンコショーの照明係


の仕事をしているという連絡がありビックリ仰天しながら竹内さんに連絡した


事がありました。遠い昔話になりますが姪との懐かしい思い出でなのでちょい足し。



そして34年後の2014年12月16日、ニュヨーク在住の作家、ジャーナリストの


青木富貴子さんが沢田美喜先生の最後の地になったマジョルカの主人の話を聞


きたいと訪ねていらした。(あぁ、やっと私の想いが叶う)と思いながら不遜に


も「どうして、沢田先生なのですか?」とお尋ねしました、丁寧に答えてくだ


さいましたが、2015年6月に新潮社より出版されましたーGHQと戦った女 


沢田美喜ーのあとがき(248p 6行〜13行)で美事に書いてくださってます。


私のブログがどれだけの人に読まれるかわかりませんが、青木さんの仰ってる


事もっと沢山の方に知って欲しいと思い、書き出させて頂きました。ー戦後70


年(今年は76年)という大きな節目に、占領期を語る事は、ますます意義あるも


のになってきた。この10年、戦争を生きた世代が次々に亡くなって戦争の記憶


が見事に風化していくなかで、わたしたち敗戦直後に生まれた昭和20年代世代


は恐らくあの時代の臭いと空気、貧困と焼け跡の名残りを覚えている最後の世


代となった。昭和23年7月、東京神田神保町で生まれた私が占領期を知る事は


自分自身を知る事であるし、戦後の日本を検証する事でもある。その時代


の日本を知ることなくして、これからの日本がわかるはずもない、そして、こ


れからの日本を真剣にに語り、新しい方向性を見いださなければならない現在


ほど、沢田美喜のように時代の空気や 趨勢(すうせいーおもむく)に立ち向か


う 覇気と勇気が必要な時もないのではなかろうか。


長い外国生活の中で、自慢出来る祖国を持ててる事はとても大事な幸せな事で


す、今はネットで世界中の動きが見れて、家事をしながら、キッチンで料理し


ながら政治や経済や歴史が学べる世の中になり、自分の事も発信できる、自国


の外で暮らしていると、あれっ日本どうなってんの?今私に出来る事は?選挙


に参加する事だ。と思いたち、バルセロナの領事館に手順を教えて頂き、在外


選挙人登録を済ませました。72歳で初めての投票です。


最後に青木富貴子さんのジャーナリスト、作家の仕事への姿勢 多くの事を学


ばせて頂きました。彼女の本どれも凄い熱量です、多く方達に特に若い学生さ


んに読んで欲しいと思います。そしてご主人のピート・ハミルトン氏のーザ・


ヴォイス フランクシナトラの人生ー(スペイン語でメッセージいただきまし


た)ーニュヨーク・スケッチブック(短編集)ー文章がとても素敵で、ハードな都


会の中の何とも言えない心優しさがジーンときます。今までは日本人には馴染


みのなかったでしょうが、移民の問題 全世界は繋がっていていつもクロスし


ています、マジョルカ島 小さい島ですが、地形学的に、気象学的に、人文


学的に 興味深さが増してきてるこの頃です。観光で生きて居るこの島の経済


は コロナで大打撃を受けてます。私達も今まで通りのレストラン経営では難し


く、やめて貰った社員達は勝軍で働いた事を 履歴書に入れると採用されやす


く、みんな再就職できました、取り敢えず一安心、さて我々はこれからどう生


きて行こうか?世界情勢を見極めながら家族会議進めている所です。旅人を続


けていた主人が骨休みをして元気になり 42年間留守番しながらキャリアを積


み上げて楽しく生きることのベテランになってきた私 10年間の経営者を経験


した息子、15年前、日本の事知りたいというので日本語の勉強のつもりで旅に


出したのですが、その頃はかなりの外国人が日本へ入ってた時期のようで日本


語はサッパリでしたが、東京で世界の動きをキャッチできたようです。10年前


私も、もう一人では厳しいので帰ってきて立て直しを頼みました、主人のイン


ドネシアでの仕事は大事な事はみんな英語なので、スペインにいてフォローし


てあげれるのでは?と提案をして、戻ってきて貰いました。10年程前からで


す、危機一発でした。色んな事経験したようです。